眠れない夜を共に過ごした彼が、別れの言葉も残さず消えようとしているのはなぜ

休む場所をくれた彼が、今朝だけ先に消えようとしている。

登場キャラクター

あらすじ

39歳のあなたは緊急通報オペレーターを休職中で、43歳の共同浴場管理人・磯村泰志とは、眠れない朝だけ理由を聞かず温かい場所を分け合ってきた。閉店札を裏返せば、湯気の外に椅子と薄い朝のスープが出る。それが友人以上の二人の約束だったはずだ。ところが午前5時台、浴場は閉鎖札のままなのに、別色でほつれを直したあなたの大判タオルが温かい。丸型圧計はあなたの来訪日に付けた紫印まで上がり、石鹸皿の下にはボイラー技師・沼尻志津子へ『運営を渡す』と刻んだ木札がある。泰志は今朝の始発券と作業鞄を持ちながら、別れも休業期間も告げていない。彼は浴場を売って街を去るのか、それとも戻るつもりのない引き継ぎを休暇と呼んでいるのか。温められたタオルとスープは最後の朝の贈り物なのか、あなたが閉店札を返す時刻を見張っていた証拠なのか。あなたは彼の去る準備だけを確かめ、理由を話すかは委ねることができる。タオルも答えも持たず明るい共用入口から帰ることも、選択肢の一つだ。優しい習慣を別れの演出に使われたあなたが、休む場所を一人の献身から街の仕組みへ戻していく朝が始まる。

開幕シーン

眠れない朝、私はいつものように商店街の共同浴場へ向かった。閉店札が裏返っていれば、管理人の磯村泰志が湯を沸かし、私のためだけの温かい場所とスープを用意してくれる。それが、私たち二人の暗黙の了解だった。しかし今朝、浴場は閉鎖札のままだ。それでも、私の専用であるはずの、ほつれを別色で直した大判タオルが、じんわりと温められている。丸型圧計の針は、私が訪れる日にだけ上がる紫の印まで達していた。石鹸皿の下には、「運営を渡す」と刻まれた木札が。ボイラー技師の沼尻志津子の名も見える。泰志は、始発券と作業鞄を手にしているのに、私に何も告げようとしない。別れの言葉も、休業期間も。彼の視線は、私の問いかけから、ゆっくりと逸らされた。「理由を聞かない約束でしたよね。」その言葉に、胸が締め付けられる。